キルケが言うことには

Yu Akahoshi.ゼロテラの代表社員/脚本家・演出家

【何故このタイミングなのか】『氷雨丸 -常花の青年遊廓-』今更終演ブログ+創作過程のメモ!【キャステット初日前】

皆様こんにちは。

赤星です。

 

大変遅ればせながら

レティクル東京座 D<ダーク>エンタメ公演『氷雨丸 -常花の青年遊廓-』

先日、無事終演しました!ありがとうございました!

↑この上の文章を書いたのが、まだ六月だったんです。。最早「先日」とかって次元ではなくなってしまうくらい、時間が…時間が…経ってしまいました…すまない…。

↑それからさらに時が経ち年が明けた。本当にすまない。明けましておめでとう。

↑ていうかもう今日、氷雨丸の次の本公演『電脳演形キャステット』初日なんです。ゲネ前にこれ最後整えてます。本当に本当にすまない。

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超~~~~今更だけど、『氷雨丸』楽しんで頂けたかな?

私はやってて超~~~楽しかったよー。

 

終演したということで、創作における様々なメモ書きを散らかったまま綴ろうと思います…IMASARA!

毎回言ってますが、事実上私が作者なので私が言ったことって「公式」とか「正解」になってしまうと思うのですが、私は作品は作者の手を離れた時点で観客・読者・受け手のものだと思ってるので、『氷雨丸』の正解はあなたの心の思うがままに…って感じでオネシャス!ここに綴るのは、赤星はこんなこと考えながら作ってました~ぐらいのさらっとした色々です!

 

-----キリトリ-----

 

『恐山』って、めちゃくちゃ憧れていた。

小学生の頃から憧れていた。ある漫画がめちゃくちゃ大好きだったから…。

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シャーマンキング

(著・武井宏之

週刊少年ジャンプで連載していた少年漫画である。あの世とこの世を結ぶシャーマン(スーパー霊能力者的なもの)のキングを決める漫画だ。人間と人間を超越したものたちの話だ。詳しくはググってくれ。

私はこの漫画がキッカケでオタクになった。これに『恐山』が出てくるんですよ。そもそもヒロインの名前が恐山(きょうやま)アンナですし、アンナはイタコですし、その後主人公とヒロインの過去編で『恐山』に行く話が出てくるんですよねー!

 

そして私が恐山を知るキッカケがもうひとつ。中学生の時にめちゃくちゃハマった歌手!その名も…

あさき。

コナミ系のゲームミュージックの作曲家・歌手である。このあさき氏が作曲した『蛹(さなぎ)』という曲がある。デビュー曲らしい。すごすぎ。この蛹も、恐れのお山で生まれた子を歌った(と思われる)歌…めっちゃカッコイイ曲なんです…でも不気味な曲なので注意です…ロングとショートで全然違う曲です…私はどちらもめっちゃ好き…。

 

恐山。おそれざん・おそれやま。

青森県下北半島に存在する日本三大霊場のひとつ。霊場…霊験あらたかな神聖な地。

私が恐山を知るきっかけは上記の二つで、まぁどちらもとても不気味なので、「恐山」ってめちゃくちゃ怖い所だと思ってた。「恐山」って字面がまず怖いし、「霊場」って字面も怖いし、中学生の頃は行ったら呪われるぐらいおそろしい場所だと思ってた。(本当にすみません。。)

行ってみたい行ってみたいと思いつつ、遠いし、怖いし、なかなか行けなかった。

大学生の頃、まぁあらゆる遠い所にも行けるぐらいになった時に、ふと「恐山…行きたい…」と思って、行き方とか調べた。

すると、「観光地としての恐山。5月~10月しか開門していない。それ以外は雪のため閉山する!?」という事実が発覚。当時大学生だった頃、夏休みは8~9月。でもその頃はその時期に演劇サークルの公演があって…とズルズル行けない言い訳をしていた。

 

そうこうしているうちに、2016年頃に「東北の恐山を舞台にした青年遊廓の話」の構想が思いつく。所謂『男遊廓 青海丸(おとこゆうかく おうみまる)』だ。

ずっと行ってなかったけど…!これを機会に行くしかない!と思い、

2017年10月にやっと行ってきました。

恐山へ!!!

ここに来て気付きました。これは『氷雨丸』終演ブログではなく、赤星ユウ恐山旅行記録なのでは…?細けぇこたぁいいんだよ!!(AA略

2017年10月、ついに憧れだった恐山へ向かったのであった!一人で!!余談ですがこの時初めて一人旅に行きました。一人旅、何から何まで自分のタイミングで出来て快適だった…ハマりそう…ちなこの後も何回か別の場所に一人旅しました。ハマっている(確信)

東京(埼玉。埼玉!!)から東北新幹線八戸駅まで約3時間。その後「青い森鉄道」なる2両編成?の小さな可愛い電車で下北駅へ約1時間半。下北駅は本州最北端の駅なんですよ。そして下北駅からは恐山に向けて下北交通バスで約40分程。

ざっと5時間程で東京から恐山に行けてしまうのだ。なおどの交通機関も乗り換えがとてもシビアでタイミングがズレると数時間待ちぼうけになるから要注意だ。

日本の真ん中ら辺から本州最北端まで5時間程度で行けてしまうことの便利さと怖さに文明を感じるし、行こうと思えばたった5時間でこの地に来れたのに何年も何十年も掛かってる自分の踏ん切りのつかなさが改めてヤだ。

 

とかなんとか思いながら、実は赤星ユウは旅行が趣味なのです。海外も国内も何処でも行くよ。最近海外行けてないけど。。

旅行って楽しい。知らない景色がいっぱい見れるし普段出来ないことが出来る。あと、計画を立てるのが結構好き。私は行く場所は事前にガッツリ調べるのですが、恐山もいっぱい調べた。「恐山は字面は怖いけど怖い場所ではない」「祈りの地」「魂の還る場所」「人は死んだらお山(やま)さ行く」「地獄と極楽併せ持つ」…etc etc…最初に抱いたイメージとどうやらかなり違うようだ……そしてついに実際に訪れてみた。恐山へ!!

ざっとその時撮った写真を並べます。

めちゃくちゃ……めちゃくちゃ素敵な場所だったのです!!!

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伝わるかな~~~!!!この素敵さが!!!!

カメラは最近趣味で始めたばかりだから写真の拙さについてはすまない。写真上手くなりたい。

地獄と極楽が混在している様!朽ちていく土地!美しく色鮮やかな風車たち!伝わるかな…!

もう本当ね…素敵な場所だったのです…訪れた瞬間から「また来たい…」って思ってた…。

山に四方八方囲まれた閉ざされた地…沸き上がる硫黄とガスによって錆び付いて崩れていくだけの建造物…風向きを変える為に積まれた石…(そして同時に『賽の河原』の伝承にもなっているかなしき景色…)さながらその様は地獄…しかしその地獄を進んだ先に広がる、極楽かと見違える程の静かな湖…宇曽利湖(うそりこ)…強い酸性の湖には生命は住めない…(酸性に強いウグイ一種類のみしか住んでないらしい…)

クルクル風車が廻る……風車は売店で一本400円で売っている…風車はお線香の代わり…硫黄ガスが噴出する恐山では所定の場所以外で火を点けることは御法度…故にお線香の代わりに風車が供えられる…風車は過去・現在・未来へとクルクル廻る輪廻転生の象徴…。

「人は死んだらお山に行く」下北の地ではそんな伝承があるそうな。今回、赤星は恐山境内のお寺に宿泊したので、お寺の方にも実際色々お話聞いたのですが、恐山はあまり宗派にこだわってないんだそう。祈り方も、人ぞれぞれ・自由なんだって。だから宗派に関係なく、色々な祈り方や祈りを携えて鎮魂のために人がやって来る。民衆に寄り添った場所、といった感じ。なんだか開放的で…確かに、自分が死んだら恐山にやって来たいと思えた。それぐらい、生者にとっても死者にとっても垣根のない、居心地の良い場所なんだろうなぁ。

恐れのお山のご本尊は地蔵。地蔵が導く御國は極楽浄土の浮き橋…。

心踊る土地じゃあないか!!(CV:犀鳥先生)

 

とにかく、不可思議な土地で…とても静かで…(オフシーズンに行ったからかも)

温泉も湧いてて…めっちゃパワーもらった…でも本当に硫黄がゴボゴボ湧き出てるから…恐ろしくもあり…生命と死が隣り合わせというか…本当に素敵な土地だった…。

旅の余談。宿泊した寺から、「夜は虫が入るので絶対に窓を開けてはいけない。でも朝になったら空気を入れ換える為に窓を開けること」と言われた。え~でも寒いし、朝とか窓開けなくてもいいんじゃないかな~と思い眠って起きたら…朝!息が苦しい!!部屋の中が硫黄ガス?で溢れてた!なるほど…朝に窓を開けないと生きていけないんだな…と思った。空気の入れ換えがあんなに重要だとは思わなかった…。

ちなみに恐山から出た自分はとても硫黄の匂いがした。そのまま東京(埼玉)に帰ったけどちょっと恥ずかしかった。リュックも硫黄の匂いがすごかったから帰って洗った。

恐山…また絶対に行きたいし、もし『氷雨丸』観て恐山気になる!って人が居たら是非行ってほしい。寺にも泊まってほしい。5~10月までしか行けないので注意!この記事が公開されてる頃にはもう手遅れでしょう。来年ゼヒ。私もまた来年行きたい。

↑ここで「来年ゼヒ」と書いてるけどもう「今年ゼヒ」です。すまない。

 

ここからは『氷雨丸』の話をしよう。

 

氷雨丸』は、レティクル東京座がL<ライト>・N<ニュートラル>・D<ダーク>エンタメという冠を今後公演毎に冠していくとした時に、一つ、ある試みをする為に生み出された演目だ。

今回の『氷雨丸』はD<ダーク>エンタメだったけど、次はL<ライト>かN<ニュートラル> のように別の冠名を冠したら面白いな…!?と思って。いつかの未来で、もし続編があったなら、同一の演目名で・だけど違う冠名でシリーズ化出来たら面白いだろうな!と思って動き出したプロジェクトです。勝手に。

なので、自分の頭の中には、今作『氷雨丸 -常花の青年遊廓-』を構成しながら、さらに続きの『氷雨丸』の構想もあった。今作は今作で完結させるけど、次作にも繋げやすいように作りました。それは演劇という媒体ではなかなか難しいことだろうけど…でも自分が「劇団」という母体を持っていて、「作品」の権利を持っているので…可能か不可能かで言えば可能なんだよなぁ…と思って、挑戦してみることにしました。今の段階で実現するかどうかは、分かりませんが!

キャストにこの話をしたら、L<ライト>エンタメ公演『氷雨丸 -常夏(とこなつ)の島のパラダイス-』を提案されました。絶対に楽しいヤツじゃん、それ。。

ちなみに、私の脳内には、『氷雨丸 -常花の青年遊廓-』の構想の段階で、何故か次の『氷雨丸』の冒頭の構想だけありました。。氷雨丸と…清らが…ゴニョゴニョ…。実現する時の為に、今ここでは言えないけど。。

まぁ、次があるかどうかなんてわからないけど!演劇だから!でも次があったら、素敵やね。。

 

●『氷雨丸』のモチーフの話

今作も自分が大好きなモチーフをいっぱい詰め込みました。

「男女逆転アンビバレンス執着綺劇!」といった作品のテーマをバーンと提示させて頂きましたが、自分が考える「男女逆転」と他人が思うソレってまた全然違って、宣伝の際にどうしよっかなと思ったりもしたけど、まぁ誤解も含めてとりあえず作品を観て判断してもらえればいいかなと思った。

なんか自分的には「男女逆転」って男装とか女装とかそういった外面的なシンプルな話ではなくて、例えば立場とか、作品におけるポジションとか、って話かなと自分で自分を分析しています。そんなこと言いながら女装男子が出てるって?ストーリー上必要だったから出しただけです、性癖じゃないです。性癖じゃないんで。

女装男子についてはこだわりがあります。決して「女」にさせないこと。男が男のまま女になる(なってない)のが好きなんです。性癖じゃないです。

話が色々飛ぶんですが、私は基本的に、どんな作品を作る時もあまり「性別」ってものに拘らず書いてます。男性が演じようが女性が演じようが違和感のない演劇を作りたくて。でもそれって、究極的に、「性別」に固執してると言えるんですよね。

例えば今作だと、「普通は」主人公の侍は男性で、遊廓に居る遊女は女性で、それを手籠めにする将軍は男性でしょうけど、今作は全て逆。何故そうしたかっていうと、それは私が「遊廓に居る男性のヒロイン」が観たかったし描きたかったからなんですね。そこからスタートして、侍と将軍が女性になった。でも、今回は氷雨丸と徳川セラフィーマは女性が演じたけど、もし誰かがこの作品を演出するってなった時に、氷雨丸と徳川セラフィーマは男性が演じてもいいんです。そのように作りました。想像してみると、氷雨丸と徳川セラフィーマは、女性が演じても男性が演じても違和感ないと思いませんか?

でも、「清ら」は男性が演じないとしんどい台本だと思います。刀とか、舐めさせられるんで…。あれは女性がやるのは、キツいと思います。男性がやるの前提で、書いた台本だし、付けた演出だから。

「性別」というものに固執しないからこそ、私は「性別」というものに人一倍固執します。矛盾しているようで、自分の中では矛盾してません。

安易な男性性・女性性の逆転じゃなく、もっと根源的なものが描きたいと思った。「性」というのは非常に、面白いテーマです。でも、扱い方を間違えると、その作品はどこまでも安っぽくなる。自分の作品が安っぽくないって言いたいワケじゃなくて、私は安っぽい作品は描きたくなくて、そうならないよう努めたいってところ。もしも安っぽく見えたならすんません、精進します、憤怒。って感じ。

女性を描くのも男性を描くのもどちらも楽しいけど、「男性」のみが持つ不可思議さ、美しさ、暴力性、エゴ、プライド…そういったものを描いたり演出したりするのが好きです。今作ではそういった矢印をいっぱい表現してみました。

 

「男女逆転」の他にもう一つ、「仏教・宗教」的な要素について。

今作だけじゃなく、私は宗教的な要素を作品に入れるのが好きです。宗教じゃねぇ

今作は「青年遊廓」と銘打ってるけど、スタンダードな遊廓モノにはしたくなくて、複合的に、そこに「祭壇」とか「供物」とか「アウトカースト」とかってモチーフも織り交ぜてみた。人身御供~。

イメージでいうところの「巨大な仏壇」それが『常花新地』。捧げられる花、「常花」。供物。贄。犠牲、救い、冀望、私。

また話が飛ぶよ。

自分としては、仏壇とか、仏さまとか供えものって、昔からかなり身近な存在だった。何でかというと、祖父が宮大工の棟梁で、寺とか作りまくってたから。私は子供の頃に日本各地の寺を見て、一般の人が入れない場所にある祭壇を見て、捧げられてる花とか果物とか蝋燭とか沢山見て、沢山のお経を聞いて、過ごした結果がコレなのかもしれない。とぼんやり思う。あまり自分の過去とか意識しないけど、完成した『氷雨丸』を観て、もしかしたらこれは大きな私自身なのかもなーとも思った。私の身体の中の「海」が抱えた世界の一つなのかもしれない。

「遊廓」という穢れた地と、「祭壇」という尊き地が、混ざったら面白いなと思って。もしそれが一緒だったら、何が起こるかというと、人間の汚い部分も美しい部分も全て曝け出される、地獄なんだか極楽なんだか分からない地が生まれる。と思って。

それこそ「矛盾」で、でも「真実の姿」なんだと思う、女性性・男性性を越えた先の、つまるところ「人間性」。私は、人間というモチーフを研究して、描くのが大好きなのです。なお日常生活では

 

「アンビバレンス」は相反したものが同時に存在するということ。私はよくそういう状態になってるし、多分、日常生活がそんな感じ。どちらも内包しているということは、どちらでもあって、どちらでもないし、つまるところ「無」に陥りやすいのです。私もまた空っぽで面白みのない人間ということです。何言ってんだ?

 

執着綺劇!の「綺」。美しいとか、華やかって意味で付けました。

「執着」っておどろおどろしい字面だしイメージだけど、それがある故に、美しい芝居になればいいなと思って。なったかな?

私は「美しさ」を描ける作家とか、演出家になりたいなって最近強く思いました。役者に白塗りさせてるのもその一環なのかも。こーいうの書くなよって感じかもだけど、お金は掛ければ掛けるだけあらゆる意味で芝居は美しくなります。美しさ=お金ではないと思いますが、お金を使わないと到達出来ない美しさもあらゆる意味であります。例えば高価な歌舞伎用のメイク用品であったり、衣裳の布であったり、音を綺麗に飛ばすスピーカーであったり、単純に「人」を雇うお金etc…そういった選択肢もちゃんと知ってる作家・演出家で在りたいです。勿論、美しい演出技法とか構成論とかも必要です。

何をもって「美しさ」とするか…って点もありますけどね。私は一般論を言いたいんじゃなくて、私が思う美しさを追求したいだけ。ぼくが考えたさいきょーの芝居を作りたいって感じ。「芝居」の追求は、果てしないです。ほんとに。

他人から見たら、私の芝居は何が良いのか分からないかもだし、美しいなんて思わないかもだけど、私は私の芝居が私にとって「美しい」と信じて作ってるよ。それを万人に伝えられるくらい、私のパワーがもっと強くなればいいのだけど。そこら辺はこれからもっと培っていくゾイ。お楽しみにね。

 

作中でも何度かそれっぽいこと言ってるけど、「綺麗」と「汚い」は共にあるから「美しさ」ってのは生まれてくると思ってる…勝手に。シェイクスピア先生も言ってたやんけ!(魔女)

『常花非人』は美と醜の象徴、『氷雨丸』という作品自体が美しさと穢(きたな)さのイコン。

作家とか演出家とかやってるからかもだけど、私は「言葉の力」というものをよく意識する。言葉の力は私に成功を運んでくれる、便利なツールでもあるし、同時にいつでも私を蝕む恐ろしいものだ。

特に「正論」というものは恐ろしい。正論とか、綺麗な言葉というものは、「その文章を口ずさんでいるだけで、自分も正しいとか、綺麗だとか、思いがちだ」。

例えば「人間を傷つけてはいけません」って言葉や概念は正しい。でもそれを言ってるソイツはじゃあ、人間を傷つけてないのか?って話で。その言葉を言っただけで、自分がそういう人間になれていると思っちゃう人間が嫌いなんだよな。それはおそらく無意識で、つまり言葉の魔力に呑まれているように私は見える。

発言というものは義務だったり、仕事だったりするけど、それをきちんと理解して言っててほしい所ではある。言葉に酔うな、って話で。まぁ、自戒の意味もあるけど。

汚い言葉を言えばその人は汚い人間なのか?と思うし、逆に綺麗な言葉を言ってればそいつは綺麗な人間なのか?という話で、私はそこに潜む「言葉の魔力」が昔から、恐ろしいし、その言葉の魔力に気付かない人間が嫌です。ポジティヴは正義か?ネガティヴは悪か?といった話で。そうじゃなくて、もっと本質を、もっと人間の深い部分を、私は知りたいし感じたいし、描きたい。自分を疑え、自分を疑え、自分を疑え!

だから、美しいと言われている言葉だけで世界を描きたくない。美しいものだけ描いて世界を完結させたくない。(自分が作るものは、って話ね!)

散々言葉の魔力に呑まれるな、って言ってるけど、言葉の魔力にどっぷり呑まれているのは私も同じなんですけどね。私が言葉を発しているのか、言葉が私を使って「発された」のか、正直な所もうわからないですよ。同族嫌悪。

でも曖昧な境界線の中、私は私から溢れてくる文章を書き続けて作品を上演し続けている。

 

人間の本質を教えて。

 

 

●暴力が赦された世界で人は人に暴力を振るうのか?

「暴力」という行動や概念についてよく考えます。人が人を殴る、また殴らずとも、人が人を精神的に追い詰める。とか。

表題の「暴力が赦された世界で人は人に暴力を振るうのか?」について、これについてはもう歴史を紐解けば、「せやろなぁ」って結論に至っちゃうんですよね。戦争とか、穢多非人とか、スタンフォードの監獄実験とかね。これらのワードとか概念は、『氷雨丸』でも多くモチーフにしたけど。人は立場とか役割を得ると、そのように振る舞っちゃうからなぁ。私も立場とか役割を演じるのが好きだし、というか演劇に関わってる人は、それがキャストであれスタッフであれ観客であれ、みんな演じるのが好きだよね。演じるのは楽しいよね、でもその魔性に呑み込まれた先にあるのは闇だぜ。って話で、でも闇は人間にとって心地が良すぎる、ベッドの上に寝転がった時に部屋一面に広がる、静かで真っ暗な空間のように。みたいなイメージをバーッと脳内で勝手に描いてる。(私もまた闇を生み出すことを生業にしている人間なのだ、ベッドの上で感じる静かな暗闇こそ私が生み出すものの本質なのだ)

今作では、麗しい青年たちに「祈り」を捧げて自らの穢れを移すことが出来る、架空の地『常花新地』というものを描いたけど。『常花新地』は架空だけど、「常花新地みたいなもの」は実在してたし、今でも実在してるんですよね。

私は歴史とか、社会の成り立ちとか勉強するのが好き。勉強するのが好き、ってだけで、知識として蓄積出来てるものは少ないかもだけど。まぁ趣味みたいな軽いモノ。。

時代に「最先端」なんて無いんだぞって最近よく思う。人は技術を手に入れても、最先端の倫理観を全人類が持てるワケじゃないって話。今の私たちが感じ取れない感覚を、すぐ隣の国では持っていたりする。時代感覚の差が、すぐ隣で発覚したりすると、私はゾクゾクするのです。今自分が二本の足で立っている地が、本当は明日にでも崩れるかもしれない脆いものかもしれないと想像すると、頭の中に色々なイメージがわき上がるのです。「もしも~」とかを想像すると、物語が頭の中で生まれるのです。

私の脳内だと、未来に向かえば向かうほど、時代は逆行していくんじゃないかなって思ってるんです。それを表現してるのが、レティクル東京座の過去公演『アイドル♂怪盗レオノワール(東京)』『皇宮陰陽師アノハ(京都)』『氷雨丸 -常花の青年遊廓-(東北)』という同時代・別地域の三部作なんですけど。

にわかなんだけど、ファッションもぐるぐるサイクルを廻るらしいじゃないですか。それと同じ。

でも、時代は逆行するけど、今まで積み重ねてきた歴史や技術や概念があるから、「進化する逆行」っていう矛盾は抱えると思う。退化しながらも時代は進むから進化はしてるっていうね。そう考えるとやはり「サイクルを廻る」って概念が一番近いんかしらね、進化しながら。そういう意味も込めて、クルクル風車が廻る、っていうワードとか、土地とかは、『氷雨丸』にはピッタリだったんです。

 

●クルクル風車が廻る(謳う)

お芝居の話でいうと、個人的な雑感ですが、回想が挟まりすぎる舞台は、なかなか難しいんです。お客さんが混乱しちゃいますし、ストーリーの流れもグチャグチャになりますからね。でも、『氷雨丸』ではいっぱい回想を間に入れまくりました。上演時間が3時間とか貰えたなら、本当はもっともっと回想とか入れたかった。。

それは『氷雨丸』自体が、クルクル廻る風車のように、過去→現在→未来に繋がる物語ってテーマにしようと決めてたのもあったし、「因果応報」を示したかったからというのもある。過去の行動が現在に作用して未来に繋がる、って構図が好きで。余殃(よおう)、かな。それが冀望であれ、絶望であれ。だから、演劇的には(個人的には)回想が多い舞台って作り方が難しいなと思ってるんですが、今作では敢えてガンガン入れました。上手く表現しよう、って気持ちも勿論ちゃんとあるし、気は遣いましたが、それよりも、表現の手段として挑戦したかった。舞台は、スタンダードに・マイルドに表現しようと思えば、そのように何処までも出来るんです。でもその中に、一部分トリッキーな表現を入れることが、その作品だけが持つ「苦み」になる。「苦み」がある舞台は、私は好きです。あなたの口に合うかは、わからないけど。 白塗りはトリッキー要素じゃないよ。スタンダードな美しさ表現のためのツールだよ。

 

 

他愛も無い話、無限に延々と語れてしまう説。

ここからは、ほんと、『氷雨丸』の創作メモのこと書こう!!箇条書きっぽく!

 

www.confetti-web.com

●↑カンフェティのインタビューでも語ったけど、主人公の伊達氷雨丸は女性。普段、あまり性別の概念とか語らないけど、あと劇中では特に触れてなかったけど、今回は敢えて性別を固定してみました。何でかっていうと、「男女逆転アンビバレンス執着綺劇」だったから…もっとかみ砕いて言うと、物語のテーマが、「男たる自分を捨てた清ら」がもう一度「男たる自分を取り戻す物語」だったから。この場合の「男たる」って、難しいけど。一般的な概念ではない…つもり。つまり、男が男であるための矜持…ですかね。そこまで行くと男とか女とか(自分の中では)関係無くなるんですけどね。つまり、人間であること、人間であるための尊厳を取り戻す、的な。

古来より、色々な演劇で、性別が逆転している者は劇の途中でよく、選ばなかった性別の姿になります。(『ラ・カージュ・オ・フォール』とかね) そこからまた戻ったり、戻らなかったり、するけど。そのカタルシスが、私は好きなんですよね。最初から男性が男性の格好してるより、最初に男性らしくない格好をしている→男性の格好になる、の方がやっぱ衝撃が強いから。

そこから考えると、清らが最後に男の姿になるのは、演劇としては、言葉はマイナスに聞こえるかもだけど(実際マイナスのつもりはないけどね)「予定調和」なんですよね。神が物語を必ずそう紡ぐように。定められた結末のように私はこの話を思いついた時感じた。

その結末を考えると、氷雨丸は女性の方がいいなと。勿論、上記↑で、氷雨丸とセラフィーマは男性でも成り立つって書いたから、男性でもいいけど。そこはもう、「そこから何を描きたいか」かなぁ…と。

まぁでも、物語の提示としては、氷雨丸とか清らの性別とかは、どーだっていいんです。二人がどう生きてくかってだけなので。だから、好きに捉えてくれればいいと思います。そこはもうお客さんの性癖に任せます。

 

箇条書きって言ってたのに箇条書きになってないやんけ!!!長いよ!

 

●物語としては、全員、性別とか関係なく、お互いの尊厳やエゴを貫く物語。誰も折れない。だからエゴを貫ける人と、エゴを折られる人が出る。全員が手を繋いで幸せになる世界は、私はどの作品でも描かない。ありえないと思ってるから。リアルじゃないと思うから。物語だから、架空の話だから、リアルにこだわらず、皆が幸せになれればいいと思うかもだけど、やっぱり今の自分の、若くギラギラした感性だと描けないんです…もっと私が歳をとったら変わるのかもしれない。今の若い感性は、今しか存在しないから、移り変わっていく(かもしれない)私の人生を丸ごと楽しんでください。

氷雨丸⇔清ら⇔煌びやの独自の関係を描きたかった。極論、煌びやが死ななければ、清らと煌びやの関係はずっと続いたと思います。二人の関係というのは、色々お客さんの好きに捉えてほしいので、言葉として明言はしませんが。「あなたは私の、全て」って言う関係かな。でも二人(二本)は『常花非人』だったので、死が二人(二本)を引き裂く。これは個人的感覚だけど、「死」って、しんどい。想い出す悲しさよりも、忘れていく怖さの方が勝る気がする。人間が一番最初に忘れるのは「声」らしい。

物語の序盤、氷雨丸に出逢う前の清らを支配していたのは、「置いて行かれる寂しさ・虚しさ」。煌びやが何処までも連れて行ってくれると思ってたけど、そうならなかった。以降、連れて行って貰える期待を誰かに託して、それが叶わなくて、でもまた期待してしまう、そのきっかけが「今を生きている氷雨丸」。死者と生者のパワーの差はすごい。過去と未来のパワーの差。物語では、清らは氷雨丸と一緒に今を駆け抜けて未来へ行くけど、でも煌びやが居てこそそのバトンは繋がったので…清らにとってどっちがどうとかは、あまり無いんじゃないかな。。ってイメージ。でも、今作を作るにあたって、現場で「煌びやの元カレ感がほしい」とは言ってた。厳密に言うと元カレではないんですが。。(?)

煌びやが生きてる世界線の學パロとかで煌びやと清らと氷雨丸が並んでる図とかほしいですね。何言ってんだ?

氷雨丸學パロ説、実は劇団員同士でちょっと盛り上がっていた。その時のワード⇒「転校生・氷雨丸」「理事長・セラフィーマ」「常花非人は生徒会(通称:innocent boys)」「前生徒会長の煌びや兄様」「保健室にいるスピネル」「新聞部の犀鳥と家鴨子」etc etc……君だけの氷雨丸學パロを作ろう!!!!(?)

●清らがセラフィーマの刀を舐めるシーンは、当初は全く頭の中には存在しなかったシーン。書いていくうちに、自然とそうなった。台本を書いてる時、考えて書いてる時と、考えないで自然と指が動いて文字が綴られていく瞬間があるけど、完全に後者の時に生まれた。でも、そのシーンに向かって指が勝手に動いていく中で、「ヤバイヤバイヤバイ、やばいシーン思いついたかも、ヤバいシーン生まれるかも、ヤバイヤバイヤバイ」ってかなり、衝動的に、情熱的に書いてた。ヤバいシーン、生まれてきましたか?

●あの刀の中、煌びやが眠ってるので、清らって煌びや舐めてるんですよね(?)

●台本は、意識と無意識の狭間で生まれるものだから、パンドラの箱なんですよね。何が入ってるのかは、実際に公演の幕が開くまで・幕が閉じるまで、自分でもあまり分かんなかったりする。

●「参拝客」のそれぞれの『常花非人』への態度や反応・言動は、自分に馴染みが深い、『演劇における観客と演者の関係性』をモチーフにしています。あなたはどの「参拝客」タイプですか?

●物語の第一声とか、一番最初のシーンというのは、毎回ものすごくこだわりますし、考えます。どのシーンも勿論深く考えますが、最初のワードは、一層。なんと今作は、ボロボロの衣裳を身に纏った清らの「……え?」これはねぇ多分劇団史上、初めてだったかと思います。笑

煌びやの台詞を聞き返す、といったニュアンスの言葉。今作の最初の台詞は「……え?」だけど、本当の意味での最初の『ワード』は、台本に描かれていない、台本外の、清らの「……え?」の前の煌びやの台詞、「私たちには、傀儡(かいらい)の才能がある」。この一文は、今作の裏テーマでもあります。(表のメインテーマは、キャッチコピーにもある「冀望」…もうちょっと詳しく書くと、劇中曲の歌詞にもある「犠牲、救い、冀望、私」)まぁでも、私は一作にものすごい量の情報とかテーマとか象徴とか暗喩とか込めるのが好きなので、他にも色々あるけど。

 

●全然関係ないけど、『常花非人』の数え方は「一本、二本…」といったように、単位は「人」ではなく「本」。これは人に非(あら)ずというのを表している。ここからはメタ的な話だけど、『常花非人』が「女性」という設定だったら、数え方は「一輪、二輪…」にしてた気がする。「男性」だから、「一本、二本…」にしたのかな…無意識に…。深い意味はないです。

●35名、どのキャストも、本当に頼もしい良い人々でした。一人ずつ、長々気持ちを語れるんだけど、恥ずかしいので、いずれまた会えたら本人に伝えますね。なお

 

 

繋がる世界の話

レティクル東京座の作品は、単体でも楽しめますが、微妙に繋がる要素を最近の作品には入れてます。『氷雨丸』をきっかけに、興味を持って頂けると嬉しいな…!でもまだ描いてない話もいっぱいあるので、此処からゆっくり見守ってくださるのでも嬉しい!

 

「母」たる海

レティクル東京座っていうか赤星作品の概念として、宇宙には「父」たる宇宙(そら)が、海には「母」たる海が居ます?在ります? 何言ってんだ?

虚無から宇宙が生まれ宇宙から星が生まれ星からファントムって妖精が生まれたんだよって説明してるのが2017年に上演されたL<ライト>エンタメ公演『アイドル♂怪盗レオノワール』で、「母」たる海は明確にはまだ描いてないけど、海の底には都があって、時折死者が生き返る(?)んですよ…何言ってんだ? 

とにかく、レティクル東京座の作品において「海に沈んだヒト」は不気味な意味を持つって感じです。でもまだここら辺詳しく描いてないんで…今後にご期待ください!

わー!『アイドル♂怪盗レオノワール』のバクステOPだー!(ステマ

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●天子・裏天子

氷雨丸』の1個前の公演、2017年に上演したN<ニュートラル>エンタメ公演『皇宮陰陽師アノハ』で、裏天子・琥珀が話してた、先代・皇后陛下の話とか、元になった遺伝子の話とかが出てます。琥珀の遺伝子上の息子・今上天皇/天子(大瑠璃陛下)がヒロインをやってる話です。何言ってんだ?

わー!前回公演『皇宮陰陽師アノハ』のOPだー!(ステマ

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琥珀は、遺伝子上は、前回公演の「大瑠璃陛下・朱鷺皇子」の父親にあたるけど、琥珀琥珀として生まれてきてるので、=父親ではないんですよね。遺伝子だけ父親と同じ。でも、琥珀は作中で唯一、「個」を認められず、「血・遺伝子」を運ぶ器として扱われます。「個」を取り戻そうと足掻く他の登場人物とは正反対に、逆行して、「個」ではないところに自分の意味を見出し帰着する。そんな異分子として、表現出来てたらいいなあ。

ちなみに『氷雨丸』に出てた「琥珀」は、『皇宮陰陽師アノハ』って作品で京都から追放された今上天皇・大瑠璃陛下の遠戚の皇女「きらら」といずれ何処かで出逢う予定です、いつかの話。だから「琥珀」の名前は「きらら」にちなんで、石の名前にしたくて、そこから「裏天子機構」の人々の偽名も石にちなんだものに。『皇宮陰陽師アノハ』に登場した大瑠璃陛下のテーマカラーが青、朱鷺皇子のテーマカラーが赤、なので琥珀のテーマカラーは黄。「琥珀」は中に「過去の生き物」を閉じ込めて「未来」に運ぶ石、的な意味合いも込めてたり。

 

『アイドル♂怪盗レオノワール』『皇宮陰陽師アノハ』『氷雨丸 -常花の青年遊廓-』どれも同時代・別地域の話ですが、どの作品も作品同士で皮肉たっぷりです。

「東京で皆が楽しくやってる…一方その頃東北は!!」とか「東北の民が苦しんでいる…一方その頃京都では!!」みたいな。三作品、続きモノじゃないので、単体でも全然楽しめますが、微妙に繋がってるので興味ありましたら是非!

 

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●ローシャ連邦帝國

今作では徳川セラフィーマとその配下の者、そしてセラフィーマの異母姉・リュドミーラ(ラブラドライト)と配下の者が出てきたけど、とにかくキョウダイがわんさか居て、父親である皇帝・アガフォン二世(リュドミーラの電話の相手)の命を受けて、次期皇位継承の為にキョウダイで我先に戦果をあげようと争っている。日本はそれに巻き込まれている。ローシャにも広大な世界が広がっている。第五皇子とかも居る。

前回公演『皇宮陰陽師アノハ』では皇族同士で争い合う兄弟を描いたけど、日本もローシャもやってることは同じ。「人種など関係なく…」抱える問題は誰しも一緒。

●あの世

煌びやが「この世は地獄ぞ、あの世は無」って言ってて、何度か赤星作品では「あの世には何もない」って言ってる人が居るけど、実は「あの世」にも世界は広がっている。でも普通の人には感じ取れない領域の話なので。。結果として「無」なのかなといったイメージ。認識外のことは、存在していないのと同じだから。いつか「あの世」の話を書きたいな。それはオリジナル作品としてだけど、それとは別に、歴代の作品で死んだキャラクタァとかが、あの世でクロスオーバーしてたら面白いだろうな。面白いか?(自問自答)

●旅に出る者たち

世界は広いから、何処かで誰かが出逢ったら素敵ですね。

上でも行ったけど、『氷雨丸』の「琥珀」は『皇宮陰陽師アノハ』の「きらら」といずれ出逢うし、南に向かった氷雨丸・清らは東京とか京都にもいずれ行くのかも。東北を出た『氷雨丸』の犀鳥と家鴨子は、いずれ京都から出た『皇宮陰陽師アノハ』の蘆屋ホクト(密やと似ている)と出逢うかも。中の人が一緒で面白い

 

何度も言うけど、作品は続きモノじゃないから、単体でも全然楽しめます。

氷雨丸 -常花の青年遊廓-』がまた新しくバトンを繋いでいきます。

またこのバトンが誰かに渡される世界で会いましょう。

 

★『氷雨丸』キャラクタァ、名前の由来・造語の由来とか

伊達氷雨丸→伊達は侍。氷雨丸は氷雨、冬の冷たい雨。東北のどんよりとした空気に似合う主人公になるようなイメージで。ちなみに清らがつけるあだ名「ひぃさま」は氷雨丸から取ってるけど、言葉遊びのダブルミーニングで、「お姫様」の意味もある。清らは氷雨丸を「私の彦星」とも言うけど、氷雨丸と清らが、お互いにとってのお姫様であり王子様でもあるって関係性を表したいなと思って。どちらもお互いがお姫様で王子様。素敵やん(自己完結)

清ら・密や・朗ら・鮮や・安ら・煌びや→偽名。~か、とかが付く品詞より。品詞の一部分を喪失しているイメージ。=あらゆる「か」をセラフィーマに捧げている。

???「贅沢な名だねぇ」

煌びやだけ先輩なので、言葉遊びとして、一字多くしてます。煌、バラすと、火の皇っていう言葉遊びも。「祓」の儀の準備を!

清らの本名→ナシ。皆、好きに呼ぶ…。過去も今も白紙。これから白い紙に何を描く?

密やの本名→上杉君景。慶長出羽合戦の上杉景勝から。君景は、君で「あなたの」とか、景で「景色・日陰」とか。君影草(スズラン)とか。花言葉は「再び幸せが訪れる」

朗らの本名→シュマリ。遥か北のエミシ(アイヌ)の言葉で狐。

鮮やの芸名→カラス。姦しい人とか、吉鳥とか凶鳥とか(矛盾を抱える者)。本名は謎。

安らの本名→ハツカ。薄荷(ハッカ)から。チョウジ・棗と香辛料トリオ的な。花言葉は「迷いから覚める」「私たちは再び友だちになろう」とか。

煌びやの本名→劇中で明記ナシ。過去も明かしてません。『氷雨丸』が一幕・二幕・途中休憩アリで上演時間が3時間半になったら描きたいな。。

徳川セラフィーマ→徳川は将軍。セラフィーマは熾天使セラフィムより。燃え盛る「天使」。対立する「天子」「裏天子」とちょっとした言葉遊び。

ミハイル=バラバノフ大佐→ミハイルはミカエル、天使繋がり。バラバノフはローシャ(ロシア)名字。

ラトキン・メレフ→ローシャ(ロシア)名字。

琥珀・桃簾・月長・黒曜・ラブラドライト・スピネル→宝石とか石の名前。上でも書いたけど、『皇宮陰陽師アノハ』の「きらら皇女」と琥珀が未来で繋がりを持つので、全員統一で宝石とか石とかのモチーフ。「琥珀」は中に「過去の生き物」を閉じ込めて「未来」に運ぶ石、作中だと「過去から遺伝子を未来へ運ぶ存在」的な意味合いも込めてたり。
帰命法師・久遠法師→両方とも仏教用語より。帰命は「仏の救いを信じ、仏の教えに従うこと」、久遠は「遠い過去・未来、永遠」とか。

森羅・万象→そのまま「森羅万象」って言葉より。宇宙に存在する全て。
千子鉄硯斎・磨穿→「磨穿鉄硯」より。強い意志を持ち続け、物事を達成するまで気持ちを変えないこと。千子は千子村正(せんじむらまさ)より。徳川に災いを運ぶ妖刀を作る者、みたいな。
ウシロメ・テノメ→「後ろ目」「手の目」という妖怪より。後ろに目があったり、手に目があったり…不気味さとか、普通の人間が視えないものが視える的な意味合いを持たせたかった。
最上伯爵→慶長出羽合戦の最上義光から。上杉との確執。「伯爵」ってワードが華族制度の中で何故か一番かっこいいと思う。思いませんか?
さらさ→更紗(さらさ)、花などの模様を染め付けた美しい布。更紗の模様って可愛いのに力強くて好き。そんな女性に…なってほしいなって…色…。
犀鳥・飛鳥(犀鳥の本名)・家鴨子→鳥関連の言葉。「サイチョウ」「アヒル」。飛鳥は飛ぶ鳥。「鳥」は『氷雨丸』って作品では結構重要なモチーフで、人間が地上であーだこーだゴチャゴチャやっている中でも、「鳥」は自由に飛んでいくんだなぁ、「アオサギという渡り鳥」も、國から國へ飛んでいくんだなぁ、「鳥」には「鳥」のしがらみもあるんだろうけど。みたいな。

チョウジ・棗→ハツカの項目でも明記したけど、香辛料モチーフ。チョウジの花言葉は「尊厳」、ナツメの花言葉は「あなたの存在は私の悩みを軽くします」とか。

ヒグラシ・ササキリ・カイコ・ナガメ→虫モチーフ。花や植物に群がるものたち。

 

◆『常花非人(じょうかひにん)』…「常花」は仏壇などに供えられる、蓮の花を象った金色の造花。「供えもの」「永久に枯れぬ花(=永遠の象徴、つまり俗世(人間界)を捨てたもの)」としての意味合い。「非人」は「穢多非人」、アウトカーストの存在、被差別民といったモチーフ。ちなみに仏教用語としての「非人」は人間に対して「それ以外のモノ」=「天界に住むもの」「龍」など。人に非(あら)ず、といったシンプルなテーマ。これらを全て掛け合わせた造語。『常花新地』はそれらが居る・在る、新しく拓かれた土地。「新地」は「遊廓モノ」ではおなじみの場所・ワード。

蓮の花は「聖性」「清らかさ」の象徴。『蓮は泥より出でて泥に染まらず』という漢文も作品のモチーフにしてる。それとは別に、蓮は「綺麗な水の中では小さくしか咲けず、水がドロドロに汚れていればいるほど大きく立派な花を咲かせる」という特性を持っているらしい。このことから、『常花非人』には「穢れ」を溜め込み『曼珠沙華』という大輪を咲かせるイメージと、反対に、どんな苦境でも「聖性」「清らかさ」を保ち続けるイメージと、両方を、観た人が抱けるように描きたかった。何度も言ってるけど、綺麗は汚い、汚いは綺麗!

蓮の花言葉は「清らかな心」「神聖」「離れゆく愛」「救ってください」など。

 

◆『曼殊沙華(かんじゅしゃか)』曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の別の読み方より。常花非人が淡い色の「花(蓮)」イメージなら、曼珠沙華は毒々しい「華(曼珠沙華)」のイメージ。淡い色合いの花がビビッドな色・毒にじわじわと浸食されていくようなイメージ。あとは、「シャカ」という語感を含んでいることで、見た目はおどろおどろしいのに、相反するような「神々しさ」みたいな印象も与えたかった。

曼珠沙華』はサンスクリット語で「天界に咲く花」を意味するとか。同じく「天界に咲く花」である『常花』と意味を被せつつ、全く違うイメージが抱けたらいいなと。別名:死人花・地獄花・捨て子花 ・幽霊花・蛇花…など、「不吉」「不気味」だったり「死」だったりをイメージしやすい名前にしたいなとも思ってた。

曼珠沙華花言葉は「情熱」「諦め」「転生」「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」など。

 

◆『テイネポクナモシリノチュー』…「何て?」でお馴染みの氷雨丸の刀の類名。あまりにもマイナーだったり最早伝承の中の存在だったりで、刀にめっちゃ詳しい千子鉄硯斎しか知らない。という設定。アイヌ語で「地獄の星」という意味。「テイネポクナモシリ」は此処まで堕ちるともう「生まれ変わることは出来ない」とされるおそろしい地…だとか。パッと聞いて「何て?」って語感にしたかったのと、作品自体が「極楽と地獄」をテーマにしてるのでっていうのと、それに付随して清らが『極楽』側の者であるのに対して、主人公の氷雨丸は『地獄』側の者にしたかったというか、立ち位置が『極楽』『地獄』だった者たちが引き合って『俗世・人間界』で生きていく…みたいなイメージ。星は、まぁレティクル東京座自体がレティクル座っていう星をモチーフにした劇団名なので、「星」は我々にとって重要なモチーフなんだよっていう至極シンプルな理由と、プラスして、主人公の立ち位置がOPの歌詞でもちょっと書いたけど「破局の流星」なので。「現状を破壊する流れ星のような存在」が持つ武器なので。

実は作中であまり素性が語られてない刀。というか、実は主人公の氷雨丸の素性もあまり語ってません。作中でぼんやり触れたけど、「氷雨丸」は「その身に矛盾を宿すもの」「どちらにも属せないもの」「オイには何にもねェからさ」ということで、『遥か北のエミシ』出身で、ローシャ人とエミシの民(多分厳密に言えば純エミシの民じゃないだろう)の混血で、しかし名前は日本名、エミシの刀を持たされ、エミシと日本のテイストが混ざった衣服を着ている…と実はかなりカオスな存在。日本が~とかローシャが~とかゴチャゴチャやってる中で、「出身のアイデンティティを持たない者」というモチーフのキャラクタァでした。

氷雨丸 -常花の青年遊廓-』は『氷雨丸シリーズ』のエピソード0みたいなものなので、きっと今後続編があれば少しずつ氷雨丸自身のこととかテイネポクナモシリノチューのこととか語られるだろう……とかふわっと言ってるけど、氷雨丸は故郷を離れて旅に出てしまったし、「氷雨丸自身の過去には何も無い」「氷雨丸は今を生きている」ので、きっとそんな語られないだろう。解散!『氷雨丸シリーズ』とかいう未来にあるのかないのか分からないシリーズ。そんなものはない。(ある)(いつかやりたいと思ってはいる)(※なお)

 

 

 唐突にキャラクタァの年齢を並べます~~~。

 

30代後半→最上伯爵

30代前半→桃簾

20代後半→帰命法師、久遠法師、密や、月長、ラトキン中尉、ラブラドライト、千子鉄硯斎、ウシロメ、カイコ、煌びや(享年)

20代半ば→伊達氷雨丸、清ら、犀鳥、ミハイル=バラバノフ大佐、黒曜、スピネル、さらさ、ナガメ

20代前半→徳川セラフィーマ、鮮や、安ら、チョウジ、家鴨子、磨穿、ササキリ

10代後半→朗ら、メレフ少尉、森羅、万象、棗

10代半ば→琥珀(設定的には14歳・多分今年15歳になるとかそんな感じ)、テノメ、ヒグラシ

 

設定上ではざっとこんな感じでした!設定年齢が分かると『氷雨丸』がまた違った趣きになる…かもしれない…。

 

★劇中曲の歌詞のお話

劇中のオリジナル曲は、赤星が作詞したりタイトルを決めたりしています。

劇中曲から見る『氷雨丸』の話は…また今度!!ツイキャスとかで!!なお

 

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そんなこんなでこの文章は2018年6月からチマチマ書き続けて今こんな感じ。

今夜からもう次回公演『電脳演形キャステット』始まっちゃうよ。 

ヒェ~~~

俺はなぜ…こんな時間にブログを……ウッッ

 

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氷雨丸』のDVDとBlu-rayも劇場で販売してるから、買ってね!!!!!!(物理)

 

 

 『電脳演形キャステット』ゲネプロ行ってきま~~~~す!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(物理)

 

 

 

by.赤星ユウ